Posted on Tuesday, 2 August 2011
・誹謗中傷が多いことで有名な「2ちゃんねる」が、なぜ人気があるのか不思議に思った
ことはありませんか?2ちゃんねるの画面表示のレイアウトは、発言されたばかりの最新スレッドが画面の左上から
順番に並び、最も目立つように設計されています。一見、文字の羅列のみで荒削りに見える
デザインですが、情報の更新、ただその一点のみを強調してほかをばっさりと切り捨てたことで
「現在」を演出することに成功しています。2ちゃんねるでは、ありとあらゆる切り口の情報が交換されています。スレッドと呼ばれるいわば
章にあたるものの数は、ある瞬間をとっても1万を超えます。
とても小さな話題であってもスレッドは立ちます(その中には、さほど有名でない個人や組織すらも
含まれます)。それが「現在」の話題となればあっという間に大きなスレッドに発展します。
2ちゃんねるにアクセスすれば現在がわかる。現在に触れられる。自分も含めた参加者たちと
現在において一緒になれる。そのメディアに触れる全員が参加者となります。マスメディアは視聴者を「大衆」と呼びますが、2ちゃんねるはそれを「個人の集合」で
あるとします。このあたりの人気があるかぎり、2ちゃんねるは生き残るのだろうと思います。ソーシャルメディアは場に「求めるもの」の違いで大別されます(下図)。片方には
「情報交換」を求める場があり、もう片方には「関係構築」を求める場があります。2ちゃんねるのような「情報交換」を目的に集まる人々は、便利で有用な情報源を求めます。
その場から情報を収集し、ときには自らが情報の提供者になることもあります。
このような共同作業の結果に現れる大きな知識は「集合知」と呼ばれます。このエリアの
仲間に入るのは、カカクコムのような比較サイト、ヤフー知恵袋のようなQ&Aサイト、
みんなで作る辞書ウィキペディアなどです。一方、「関係構築」を目的に集まる人々は、気心の知れた仲間たちによって場の雰囲気が
醸成される小さな集団を好みます。
参加者が20名を超えるあたりから急速に活性が失われ、場が分散したり解散したりする
現象も起こります。どうやら、お互いのニックネームやプロフィールを覚え合って、長期間に
わたりお互いを配慮し合える空間は20名程度が限界のようです。この関係構築のエリアに参加する利用者の心情を探るため、私は慶應義塾大学と
産学協働の調査を行いました。そこで生々しく語られたのは、「(素の自分を)表現できている」、
「仕事のあとにビールを飲むのと同じ感覚(で、自分をリセットする)」といった言葉でした。
この、他者を通した自分との語らいの時間が、ある種の「癒し」を提供している点は見逃せません。最近になってまた、「ソーシャルメディアには実名で参加するべきだ」という主張が目立つように
なってきました。そのうちのほとんどは、ソーシャルメディアの経験が不足していることによる
「人は実名じゃないと信用できない」という素朴なものです。それらの主張は、属性をとり払った際に
現れる個性豊かな本心、個人に帰属しない真剣なオピニオンがあることを知りません。このほかにも一部の有名人による主張もあります。それは、自分が誹謗中傷や無責任な意見を
受けた際、その発言者を特定し反撃や反論ができないことへの苛立ちから来るもので、「意見を
述べるのであれば、実名でせよ。議論にならない」というものです。しかし最近になって、このどちらでもない主張も現れるようになりました。その主張は一見、匿名性を
否定しているように聞こえますが実際はそうではなく、よく聞いてみるとその否定の対象は社会との
断絶にあります。
つまり、匿名性の“繭”の中にいては社会と無縁なままになってしまう。逆に、実名性を高めると
本人到達度が上がる。実名で参加すれば社会との断絶はなくなるであろうという主張です。
つまり、「実名は社会とつながる」というものです。匿名に隠れる弱さを糾弾する正義を身にまとったこの主張は、個人にとって強引で乱暴な
提案になってしまっています。そもそも、個人が実名性を高めた状態でソーシャルメディアに
参加することには大きな危険がともないます。
たとえば、子供の写真やよく行く公園を紹介しただけでも、誰かが子供に名前を呼びかけて
接触することはたやすくなります。今後、このような個人の情報開示にともなう事件が
多発するだろうと思われます。そのようなリスクを負ってまで、なぜ情報発信をするのか?
その動機が問われるようになります。実名性を擁護する主張には、個人が抱えるリスクのほかに、もうひとつの重大な問題が
未解決なまま残ります。それは、有名人のように自分のまわりに大きなネットワークを
持たない個人が情報発信を行っても、社会からの注目を集めることは難しいという現実です。
そのままでは社会とつながるどころか、社会と断絶していることを再確認する場になってしまいます。実名性が高い状態で個人がソーシャルメディアに参加することは、個人に大きな負担を
かけます。このような現状を踏まえれば、実名性を高める方向だけでなく、匿名性を維持したまま、
社会につながるモデルを考える必要が浮上してきます。詳しくは次回考察しますが、私はこの問題に対するひとつの解決方法として、企業が社会との
隔絶に架かる橋になれるのではないかと考えています。それでは、企業が匿名性の高い価値観のソーシャルメディアに関わるにはどうしたらよいのでしょうか。
同じ価値観でも、情報交換のエリアは難しいでしょう。情報交換の場では、利便性や有効性が求められ、
情報提供を優れて行う者が評価されます。掲示板にしても、比較サイトにしても、そこでは多様な意見を
できるだけ冷静に客観化するふるまい以外は受け入れられず、自社を特別視してほしいとアプローチする
企業の姿勢は敬遠されます。こうなってくると企業としては付き合い方が難しい。2ちゃんねるで消費者とつながることが難しいように、
情報交換のソーシャルメディアは、企業が踏み込むことを許さない消費者による消費者のための聖域で
あるといえます。企業が直接関わりをもつことはできない、と潔くあきらめるのが賢明でしょう。しかし、これが「情報交換」と対極にある「関係構築」のエリアではまったく様相が変わってきます。
次回はここを出発点にして議論をしていこうと思います。
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